大阪地方裁判所堺支部 昭和57年(わ)663号 判決
【主文】
被告人は無罪。
【理由】
第一公訴事実
本件公訴事実は、
「被告人は、昭和五七年四月二四日午前二時三〇分ころから午前四時ころまでの間、大阪府岸和田市藤井町一丁目一六番二九号所在うどん店「初代」こと北野初代方前において、酔余、閉店後の同店に入ろうとして、繰返し同店表戸をたたき、開けてくれるように頼んだが、同女に無視され相手にされなかつたことに立腹し、その腹いせに同店に放火しようと決意し、同日午前四時ころ、同店裏に置いてあつたプロパンガスのボンベを、同店便所汲み取り口前まで運び、右ボンベのホースを汲み取り口の中に差し込み、バルブをゆるめて右ボンベからガスを放出させた上、これに所携のライターで点火して火を放ち、右便所内の羽目板などに燃え移らせ、よつて、権月順所有の右北野初代らが現に住居に使用している木造亜鉛メッキ鋼板葺平家建(床面積40.15平方メートル)の板壁等(合計約八平方メートル)を焼燬したものである。」
というのである。
右公訴事実中、被告人が同記載の日時場所において、同記載の如く現住建造物に放火してその一部を焼燬した点については、第一ないし第三回公判調書中の被告人の各供述部分、被告人の検察官及び司法警察員に対する各供述調書、北野初代及び浜村千一郎の司法警察員に対する各供述調書、司法警察員作成の実況見分調書及び昭和五七年九月二一日付捜査報告書並びに登記官井上弘作成の登記簿謄本によりこれを認めることができる。
第二被告人の本件犯行当時の精神状態
一<証拠>を総合すると、次の事実が認められる。
1 被告人は、大阪市港区において、父四郎、母サカエの三男として生まれ、愛媛県今治市で小中学校を卒業後、間もなく来阪して洋服屋店員、大工などをし、一時期上京して熔接工として働き、その間の昭和三三年九月ころ大蔵好子と婚姻したが、昭和三七年六月ころ協議離婚し、その後再び来阪して、泉北郡忠岡町で製材工などをして働いているうち、昭和四三年七月ころ大植佐代子と婚姻し、一男一女をもうけたのであるが、被告人が酒を飲み過ぎ、警察による保護と入院を繰り返し、仕事をせず、家に生活費を入れなかつたため、妻に迫られて昭和五七年四月五日協議離婚し、家族の住む岸和田市内のアパートを出て、大阪市西成区の簡易旅館を転々しながら、沖仲仕や荷役などの日雇仕事に従事していたものであるが、昭和三五年ころから昭和四〇年ころまでの間に、暴行二件及び鉄道営業法違反でそれぞれ罰金刑を受けたことがあるだけで、他に前科はない。
2 被告人は、昭和四一年ころ、下関で仕事をしていた際、旅館で酒を飲んで寝るうち、何人もの男が自分を殺しに来たと妄想し、電車に乗つて逃げたが、今度は乗客らが自分を殺そうとしていると妄想して、電車から線路に飛び降り、更に高さ八ないし九メートルの高架から下に飛び降りて左足大腿骨々折等の重傷を負い、精神病院に六ケ月収容され、昭和四四、五年ころ、自宅で酒を飲んで寝ている時、知らない男が自分を殺しに来たとの妄想にとらわれ、あちこち逃げ回つているうち、母の声を聴き、これに導かれて狭い溝の土管の中に隠れているところを警察に保護され、二週間入院し、昭和五三年五月ころにも自宅で酒を飲んで寝ている時、天井全体がテレビになつて大勢の男が映り、これらの男が家を取り囲み、「前に別れた女が死んだ。その女の依頼でお前を殺しに来た。」と云つている内容の幻視、幻聴を覚えて方々を走り回つた末警察に保護され、酒精依存症、肝障害により一五日間入院し、昭和五四年四月ころと昭和五六年四月ころには、いずれも自宅で酒を飲んで寝るうち、同様数人の男が自分を殺しに来る妄想、幻聴を感じたため、自分自身で頭がおかしいと判断して入院し、アルコール依存症及び慢性肝炎と診断され、治療を受けたのであるが、その後も酒を止められず、妻から離婚され、大阪市西成区で生活するようになつてからも飲酒は続いていた。
3 被告人は、昭和五七年四月二三日午前八時三〇分ころから午後六時三〇分ころまでの間、泉大津市臨海町の倉庫会社で働いた後、近くの銭湯で顔見知りの男と出会い、同日午後七時三〇分ころから翌二四日午前零時前ころまで同人と右銭湯近くの一杯呑屋で一人当りビール五本とつまみを飲み食いし、南海電鉄本線の「松之浜」駅から難波行きの最終電車に乗ろうとしたが乗り遅れ、仕方なく安宿に泊まるため、反対方向の和歌山方面へ行く電車に乗り、岸和田市内の「和泉大宮」駅で下車した。
4 被告人は、同日午前零時半ころ、空腹を感じて同駅近くにある中華料理店「味よし」へ入り、店主と雑談しながらアルコール分三五度の白乾酒(パイカル)をコップ三杯(計二合一勺位)、ギョウザ一皿、焼飯一杯を飲食し、その際店主には自分の長男と同じ中学校へ行つている長女があることを聞いたのであるが、店主の態度に落ちつきがないように思えたため、店主の長女が誘拐され、犯人から脅されているのではないかと疑い、同店を出てからもその付近をはいかいして店内の様子をうかがつているうち、店にいた男客と同店の女店員の挙動を見て、同人らがぐるになつて店主を脅し、金を要求しているのではないかと思い込み、午前二時前ころ、前妻佐代子を電話で呼出し、同女に対し、「中学生の女の子が監禁されている。」等と告げて店内の様子を確かめさせようとしたが、同女はこれを相手にせず帰つてしまい、更に長男に確認させるため長男を電話で呼出したが、長男は来なかつたので、午前二時ころ店主の様子を見ようとして再び前記「味よし」に入つて行つたが、かなり酔つている様子であつたため、これ以上飲ませてはならないと判断した店主に注文を断わられ、前記男客によつて店外に連れ出されて、近くの料理屋の軒下に寝かされ放置された。
5 その後午前二時すぎころ被告人は、前記「味よし」の娘を捜すため、灯りのついていた公訴事実記載のうどん店「初代」へ赴き、不在の同店店主を捜して立つたりすわつたりしている女連れの男客の挙動を見るや、女の方は誘拐された前記「味よし」の娘であり、一緒にいる男に監禁されていると思い込み、同店を出て午前二時三〇分ころ公衆電話から「うどん店で娘が監禁されている。」等と一一〇番し、自分の名前と家族の住む家の電話番号を告げ、再び同店に戻つたが、すでに「初代」は閉店し灯も消えていたので、戸を開けさせて中の様子を見るべく、「うどん食べたいので開けてくれ。」などと言いながら表戸をとんとんたたき、中にいるはずの娘を安心させようとして、歌つたり、独言を言つたりしながら同店のまわりを歩きまわつた。
6 被告人は、同日午前三時ころ、三たび「初代」付近に赴き、表で「うどん食いたいのや。」などと大声でいいながら表戸をたたいた後、同店の二軒隣りにある読売新聞販売店で配達員が朝刊配達の準備をしているのを見ているうち、新聞を入れさせたら中の様子がわかるかもしれないと考え、午前三時五〇分ころ、配達員に対し、スポーツ新聞を「初代」に入れてくれるよう頼み、同人が新聞を「初代」の戸に差し入れただけで戻つてくるや、「黙つて置いて来るんか。」「中にだれかおる。」などと不満を述べたが、配達員に無視され、途方にくれて「初代」のまわりをうろついていたところ、右新聞販売店裏でプロパンガスボンベを見付け、これを使つて「初代」に火をつければ中にいる犯人らが飛び出してきて、娘も逃げられるだろうと考えるに至り、公訴事実記載のとおりの犯行に及んだ。
7 被告人は、本件犯行後、同店の中から飛び出してくる犯人たちに捕まらないように、その場から逃げ、南海電鉄本線の「春木」駅まで行つたが、その後の記憶がなく、同日午後三時二〇分ころ、大阪市阿倍野区阪南町で民家に入り、ビルが倒れる等わけのわからないことを言つて大声を出しているところを警察に保護された。
二右に認定した事実によれば、被告人は、昭和四一年ころからアルコール摂取に起因する被害妄想、幻覚、幻聴等を度々体験し、昭和五六年まで計五回にわたり入退院を繰り返していたが、その後も酒を断つことができずに飲酒を重ねていたこと、本件犯行前には約六時間の間にビール五本及びアルコール分三五度の中国酒二合一勺位を飲み、多量のアルコールを摂取した結果、前記「味よし」の店主の娘が誘拐され、「初代」において監禁されているという妄想を抱くに至つたものであること、その後犯行までの行動は一貫して右妄想を前提として、その娘を助けようとしたものであり、これとは別に、被害者に対する憤まん、怨み、あるいは自己の気晴らしといつた放火の動機は認め難いこと、そして、様々な手段を講じて失敗した末の最後の手段とはいえ、誘拐された娘を助ける目的で被告人が行つた本件犯行は、まかり間違えば同女を焼死させるばかりでなく付近の建物に延焼させて多大の被害を与えかねない危険な行為であり、右の目的のための行動としては極めて突飛で、了解困難なものであること、更に、本件犯行後の一二時間近くに及ぶ行動を被告人は追想できず、その間に顕著な錯視が発現していたこと等を考え合わせると、被告人は、本件犯行当時、アルコール幻覚症に基づく妄想に支配されていたため、是非善悪を弁別し、且つそれに従つて行動する能力を欠いていたものと認めるのが相当である。
三ところで、医師濱義雄作成の鑑定書及び第二回公判調書中の証人濱義雄の供述部分によると、同人は、本件犯行当時の被告人の精神状態は、「睡眠不足、身体疲労を加えた重度メイテイ余酔状態」に「軽度な、酒客急性幻覚病」を随伴した高度異常な精神状態で、限定責任能力が妥当であるとし、その根拠として、被告人にはうどんを食べさせろと言つたが相手にされなかつた憤まん腹いせの心理があり、それに、娘が監禁されているので騒ぎを起こして逃がしてやろうという幻覚妄想性判断が添加されていたところ、基本的な「通常の憤まんばらし、腹いせ心理」による放火意には当然通常の判断力が裏付けられているが、妄想性意図によつてこの判断力が著しく制約され、そのため犯行は異常に軽易に敢行された、とする。
しかしながら、前記認定のとおり、被告人「味よし」において既に女子が監禁されているとの妄想を抱き、それを確認させるため妻を呼び出し、或いは長男を呼び出そうとした行為があること、最初前記うどん店「初代」に行つた時には店主は不在であり、その後一度も店主との交渉がなかつたこと、被告人はたまたま居合せた男女の客を見て、誘拐犯人と前記「味よし」の娘であると思い込み、その旨一一〇番した後再び右「初代」に戻り、「うどん食べたいのであけてくれ」といいながら閉店した同店の表戸をたたいたり、相当時間歌を歌つたり、独言をいいながら同店のまわりを歩きまわつていること、その後新聞配達員に新聞を配達させて店内の様子を探ろうとしたこと、被告人は約一時間位前に前記「味よし」においてギョウザと焼飯を食べたばかりであることなどをあわせ考慮すると、被告人の右「初代」における言動は専ら妄想に基づき「味よし」の娘を助けるためのものであつて、憤まん、腹いせの心理状態に基づくものではなかつたとみるのが自然である。また、被告人は昭和五七年五月二四日付の司法警察員に対する供述調書の中で、本件犯行の動機につき、歩きまわるうちプロパンガスボンベが目につきこれに悪戯してやろうと考えボンベをころがしながら付近を見たところ、便所の汲取口があつたので便所を燃したら面白いだろうと考えて犯行に及んだ旨気晴し的犯行を供述している部分があるが、右供述は前記認定の犯行に至る客観的経緯と全く整合しない供述であつて、信用性の乏しいものと云わざるを得ない。
よつて、濱鑑定にいう憤まん腹いせの心理は、これを裏付けるための証拠に乏しく、右心理の存在を前提とする同鑑定の結論には疑問があるといわねばならない。
四また、証人窪田一夫の当公判廷における供述及び鑑定人窪田一夫作成の鑑定書によれば、同人は、被告人の犯行時の精神状態はアルコール精神病の幻覚妄想状態であり、心神耗弱状態であつたとし、その根拠として、アルコールの幻覚妄想が一過性のものであること、被告人はこれまでアルコール酩酊のため数回幻覚妄想を起こして精神病院に入つており、アルコールを飲めば妄想に支配されることを予測できたはずであり、また妄想に対する確信が弱いことを指摘する。
しかしながら、同鑑定人も、被告人が犯行当日の午前二時ころから午後五時ころまでの約一五時間もの長時間幻覚妄想に支配されていたことを是認しているのであり、本件では、この間における被告人の責任能力を検討しなければならないのであるから、アルコールによる幻覚妄想が一過性のものであることをとらえて、右妄想にもとづく行為が心神喪失状態の下での行為ではないという一般論は是認できない。また、前記のとおり、被告人にはアルコール中毒症により五回の入院歴はあるものの、これまでの妄想は本件と異り、自己に対する追跡妄想であつたが、これにより他人に危害を加えたりしたことはなく、本件の如き犯行に出ることは被告人には予測困難であつたと考えられるから「原因において自由な行為」の論理を本件に持ち込むのは相当でない。
更に、被告人は前示のように前妻や子を呼んで妄想の真偽を確めさせようとし、また一一〇番通報したことがあり、これらの点が同鑑定人の指摘する被告人の妄想に対する確信が弱いことの根拠になり得るとしても、妄想に対する確信の強弱が責任能力にどの程度影響を与えるものであるか必ずしも明らかでなく、又その後の被告人の行動に照らすと、本件犯行時においてもなお右確信の程度が弱かつたといえるか疑問があり、遅くも一一〇番通報した以後本件犯行に至る被告人の一連の行動は、同鑑定人もいうようにアルコール精神病による妄想状態に支配されて自己と他人との区別がつかなくなり、自己に迫つてくると同じ感情のもとにすべて妄想に支配された結果の行動とみるのが自然である。従つて同鑑定の結果にも疑問があるといわねばならない。
第三結論
以上の理由により、本件は「被告事件が罪とならない」場合にあたるから、刑事訴訟法三三六条前段により、主文のとおり判決する。
(重富純和 小林克美 細井正弘)